雪 舟 1420〜1506
室町時代の禅僧、画僧(1420〜1506)。諱(いみな)は等楊、備中国(岡山県)赤浜(総社市)に生まれ、幼時、宝福寺で涙のねずみを描いた話は有名。幼少にして上洛し、相国寺に入り、禅僧として修業を積むかたわら、絵を周文に学んだ。寛正3年(1462)ごろ元の楚石梵g(そせきぼんき)の墨跡「雪舟」の二大字から竜崗真圭が雪舟二字説をつくり、これを号として使用した。その後、明国と交渉を重ねていた周防国(山口県)の大名大内教弘を頼り、大内氏の領下の雲谷庵に身を置き、中国へ渡る機会をうかがっていたが、応仁元年(1467)ついに遣明船に便乗して入明。寧波では四明天童第一座に推され、北京では礼部院に壁画を描いた。文明元年(1469)帰国後、大分で天開図画楼を開き、同10年には益田を訪問し「益田兼尭像図」「山寺図」「花鳥図屏風」を描き、万福、崇観の両寺に山水庭を築いた。同18年、名作「山水長巻」を制作し、明応四年(1495)には「破墨山水図」、翌年は「恵可断臂図」を作った。晩年、益田を再訪し、山寺東光寺に入山し、本尊観世音菩薩の下で、画の制作に励んでいたが、ついにこの地で87歳の生涯を終えた。