花  神

 司馬遼太郎著


浜田騒動

 村上元三著

石見文学散歩目次

女 優
花 神/浜田騒動
閉じられた海図/
間宮林蔵
女 優 X
終 焉
イルティッシュ号の来た日
七人の吉右衛門/
四十七人の刺客
漁 灯/神威岬
ヰタ・セクスアリス/
私の森鴎外を求めて
津和野/脱 出
ふるさとの書林
石見文学散歩

花 神  司馬遼太郎著

 昭和47(1972)年、新潮社刊の長編小説。新潮文庫(全3巻)。
しば・りょうたろう 1923(大正12)−1996(平成8)年。大阪市生まれ。 「梟の城」で直木賞受賞。「竜馬が行く」 「国盗り物語」「菜の花の沖」など作品多数。

壮絶に戦った浜田藩士大麻山付近地図 

 周防の村医から一転して討幕軍の総司令官となり、維新の渦中で非業の死をとげたわが国近代兵制の創始者・大村益次郎の波乱の生涯を描く長編小説。
この中で、明治維新の発端となった第二次長州征伐(慶応2年)が子細に描かれている。幕府の尖兵を勤めた浜田藩と援軍・福山藩とが最も熾烈な戦いを演じた石州口(益田市)の戦から、浜田城落城まで生々しく描写されている。
 維新のための討幕戦を通じて、本気で戦って大きなダメージを被ったのは、水戸藩と浜田藩だけである。浜田藩の場合、残念ながら「終結」の仕方がよくなくて、この「花神」を除いて取り上げられることが少ないのは寂しい限りです。

大麻山(標高599b)頂上から浜田の街が見える大麻山から浜田城を望む

 浜田藩の中にある津和野藩の飛地(三隅町井野)に住いする三浦長兵衛の手引で長州軍はこの山を無血占領した。蔵六(大村益次郎)は、ここから攻城戦を指揮した。奇縁というべきか、この三浦長兵衛の曾孫にあたる人が、「津和野物語」の作者・三浦浩氏であり、司馬遼太郎が勤務先の新聞社で彼と机を並べたことのあるという。

石州口の戦石州口の両軍配置図
 慶応2年(1866年)6月16日、大村益次郎、井上聞多、杉孫七郎らを隊長とする長州軍は、横田・梅月を通り、扇原の関門に迫り、浜田藩の関守・岸静江国治を討ち益田へ進出した。日暮れになると横田に帰陣したが、扇原の戦を知った浜田軍は慌てて益田に出陣し、福山軍らとともに益田川北岸に布陣した。翌17日、長州軍は再び益田を襲い浜田・福山両軍に対し総攻撃を加えた。
 一方、長州軍の須佐・益田隊は乙吉・下本郷を経て秋葉山の拠点を落としたので、勝達寺・医光寺にいた福山軍は手切れの険を越えて敗走した。 さらに長州軍は秋葉山から椎山に進出したので、万福寺に立てこもっていた浜田軍も雪崩を打って垰山を越え津田方面に敗走した。この時、幕府の軍監・三枝刑部をはじめ、浜田藩隊長・山本半弥、剣豪・永井金三郎らは急追を受け垰山付近で戦死した。
 しばらく益田に滞在した長州軍は7月18日、周布・長浜に進出し幕府連合軍を破って浜田に進入した。 この時、浜田城主・松平武聡は城を焼き、夜間密かに小舟に乗って逃れ、作州にある飛地・鶴田に留まった。
[ 図は 石州口(益田市)の幕長軍配置図 ]

幕府軍の退路を読んでいた益次郎

山口市内の潮満寺で発見された「大村文書」が最近漸く解読され、石州口の戦の戦略図に予想される幕府軍の敗走路が描かれていることがわかった。益次郎は、世界の情勢が内戦を許す状況になく、敵を追い詰め犠牲を増やしてはいけないという配慮から、戦う前から勝利を確信し敵の退路を空けて置いた。

苔むす浜田城山の城門浜田城の門

 浜田藩は降伏するのを恥じ、城に火を放って津山
(岡山県)にある飛地へ逃げた。最近の調査で、浜田城はいわゆる天守閣を備えた城ではなく、櫓を備えた山城だったのではないかと言われている。この門の側に著者が碑文を書いた碑がある。

浜田騒動  村上元三著

 島帰りの浪人が、浜田旧城下で偽の公卿に化け、維新の世に不平不満を持つ旧藩士や庶民を引き込んで、ひと騒動を企んだ「騒動」のてん末を描いた傑作。
  明治3(1870)年1月、首謀者前田誠一(旧長州藩諸隊出身者)が諸隊解散に不満を持って、山口県での同様の動きに呼応して、町民を扇動し大森県浜田支庁を襲撃占拠した「前田騒動」の史実に基づき書かれたもの。 長州戦争による敗戦と、維新直後の行政混乱、民心の動揺など当時の浜田の状況を克明に再現している。昭和63年、光文社刊の短編集に収録。

村上元三 むらかみげんぞう
 1910年生まれ。短編「上総風土記」で第12回直木賞受賞。「加賀騒動」「仙石騒動」のほか「松平長七郎旅日記」シリーズも好評。