| 杉本苑子 すぎもと・そのこ
1925(大正14)年東京生まれ。「孤愁の岸」で直木賞受賞。「滝沢馬琴」「穢土荘厳」など作品多数。
昭和52(1977)年、毎日新聞社刊の長編歴史小説。平成9(1997)年中央公論社刊、杉本苑子全集第2巻。薩摩藩から「さつまいも」を移入・普及させて、飢饉から農民を救い、「芋代官」として慕われた井戸平左衛門の生涯を描いた秀作。著者自身、数多くの作品の中でも「気に入った作品」と後書きでも書いている。
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六十歳になった井戸平左衛門は、大岡越前守の推輓(すいばん)で「石見銀山領支配」を命じられ、享保16(1731)年9月、 大森代官所に赴任した。不作続きのため領内の商人たちから金を徴収、他国から雑穀を仕入れ農民たちに配った。
銀山は長雨被害で病んでいた。平左衛門は、薩摩から唐芋の入手を企てる。関所の役人の監視をかいくぐって薩摩から持ち出した芋種も、ほとんどが栽培に失敗したが、わずかに福光の老農夫の努力で種芋ができた。
イナゴの被害で山陰、山陽、九州に10万人の餓死者が出た。しかし、石見銀山領では1人の飢え死にも出なかった。平左衛門が独断で官庫を開放したからだった。
平左衛門は2年間で職を解かれ、享保18年5月、笠岡まで運ばれたとき、割腹して果てた。 [写真:
大森代官所跡(現・石見銀山資料館)]
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サツマイモを救荒作物として石見の地に導入した井戸平左衛門は死後「芋代官」として尊敬を集めてきた。その顕彰碑の分布は石見を中心に出雲、伯耆など広範囲にわたり、450基以上が確認されている。平左衛門をまつる井戸神社も明治12年、銀山川をはさんで大森の町並みを見下ろす高台に創建された。いずれも、凶作の度にサツマイモで飢えをしのいできた多くの人々が、後々まで平左衛門の善政を語り継いできたあかしだ。
終戦前後の食料不足の時代にも、このサツマイモや芋の蔓を食べてひもじさを凌いだ人も多かった。
(写真:大森町の井戸神社) |
『・・・慶長から寛永にかかる最盛期には、戸数2万6千戸、山に拠って生活する者の数6、7万人にもふくれあがり、「家の上に家を重ね、軒の下に軒を連ねる」と旧記に書きとめられるほどの大集落となった。消費する米だけでも、1日に1,500石。俵にして3,750俵に達したという。行き交う駄馬のいななき、車のひびき、稼ぎ人たちの挙げるえいえい声は、二つの峰七つの谷に、夜ひる絶えまなく谺し、寺院すら百か寺を越えて、「打ち鳴らす鐘、太鼓のにぎわい、京、大阪に劣らず」と評判された。』
(本文より抜粋) と石見銀山の最盛時の様子が描かれている。
(写真:五百羅漢) 銀山で働く坑夫の安全と供養のために寄進された羅漢像は、人間の喜怒哀楽の情を如実に表現している。 |