七人の吉右衛門

江下博彦著

四十七人の刺客

池宮彰一郎著


石見文学散歩目次

女 優
花 神/浜田騒動
閉じられた海図/
間宮林蔵
女 優 X
終 焉
イルティッシュ号の来た日
七人の吉右衛門/
四十七人の刺客
漁 灯/神威岬
ヰタ・セクスアリス/
私の森鴎外を求めて
津和野/脱 出
ふるさとの書林
石見文学散歩

七人の吉右衛門

江下博彦: 大正7年福岡県生まれ。九州帝国大学医学部、大学院卒業。医学博士・精神鑑定医。1999年叢文社刊。寺坂吉右衛門を始めとする数々の「忠臣蔵」の謎と争点を検証した力作。 吉右衛門の分骨墓 

  寺坂吉右衛門の単独で建てられている墓があるのは、東京・南麻布、五島、出水、八女、益田、伊豆、仙台の7ヶ所ある。吉右衛門は晩年、南麻布の曹溪寺に身を寄せており、この寺で延享4(1747)年10月6日その生涯を閉じた。

   咲くときは 花の数にも入らぬとも
     散るには同じ 山桜かな (辞世)

筆者は、七つの墓を回り終えたが目標とする吉右衛門の檢証を果たすことはできなかった。この解明は「あとにつづくを信ず」と書かれている。

益田市遠田のキヌヤの横を入ってしばらく行ったところに寺坂という地名があり、そこに信行庵があり、お墓があった。お墓のお世話をしている民家の方のお話だと、吉右衛門から取った地名だということだった。
『安田村(遠田村の旧村名)発展史』には、「吉右衛門の母は浜田の郷士、川上又次郎の娘で、浜田藩士に嫁ぎ吉右衛門を生んだ」と書かれているが、出生については謎である。

すえの墓吉田忠左衛門の母・りんは、吉右衛門を幼少
(8歳)の時から育ててくれた恩人であり、その娘のすえが嫁した浜田藩や本多家(藩主であった時代はずれている)とはいろいろな関わりがあり、遠田も浜田藩の領内であった。九州への行き帰りの途上など放浪のついでに一時身を休めたとしてもおかしくはないであろう。浜田市殿町・妙智寺に吉田忠左衛門の末娘・すえの墓がある。

すえは浜田藩主・本多家の家臣那須彦右衛門重矩に嫁し、明和 2 年 (1765 年) に79歳で浜田で没した。妙智寺の住職夫人によると、那須彦右衛門は三隅の代官を勤めていたとの話でした。すえは吉右衛門が吉田家に奉公している16歳の時に生れているから、おんぶして子守りをしたと考えられている。

唯一人生き残った寺坂吉右衛門信行

  • 四十七士の中の参謀格である吉田忠左衛門を主人として仕えた吉右衛門は、一人足軽の身分で討入りに加わった。
  • 討入り決行の際には、主将・大石内蔵助良雄、副将・小野寺十内秀和ら24名の表門組の中で伝令を勤めた。
  • 首尾良く本懐を遂げて泉岳寺に向かう途中、大石内蔵助は吉右衛門に対し結盟を抜け使者に立つように命じた。
  • 吉右衛門は命に従い、討入りのてん末を幕府には秘密裏に仔細に申し伝えるべく、また義士らの残された遺族らの生活を助けるべく、広島の浅野本家、浅野内匠頭の妻・瑶泉院など縁の続く者たちのもとへ旅立っていった。
江津市黒松にも寺坂吉右衛門の墓

黒松の墓寺坂吉右衛門の母は、浜田藩敬川(現江津市敬川町)の出身と言われ、遍歴の途上石見の国を訪れ、黒松に庵を結んで念仏三昧の日々を送ったと伝えられている。
 現在の墓はJR黒松駅前の小高い丘に、昭和44年に庵(信行庵)とともに再建されたもの。 資料によると、寺坂の生国は丹波の国多気郡宮田村で、久下平右衛門の息子で、8歳のとき吉田忠左衛門につかえた。27歳のとき下村せんを娶り足軽に取り立てられた。また母は敬川の郷士・川端与右衛門の娘(名は不詳)とあり、和多郎左衛門の妹という。

四十七人の刺客
 1992年新潮社刊の長編時代小説でいわゆる「忠臣蔵」のリニューアル版。
池宮彰一郎:大正12年東京生まれ。満州生活、陸軍体験を経て、昭和27年脚本家として独立。大手映画社の脚本多数。京都市民映画脚本賞を受賞。これが小説第1作。