島根県石見地方の浜田市で生まれ育った私は、幼いころから石見神楽を見てきた。石見神楽は出雲神楽を由来とする伝統芸能で、「岩戸」「大蛇」「鍾馗」など三十数種の演目がある。舞い手が顔につける面も多彩で、全演目を上演するのに必要な面は50種類ほどにのぼる。
収集数は350超す
私はこの石見神楽面を1970年の秋から集めている。建具師の仕事の傍ら、350を超える神楽面を集めた。神社に奉納するために神楽を舞う「社中」のメンバーではないが、地元の子供神楽の指導をするなど、石見神楽には深くかかわってきた。85年には集めた神楽面を飾るため、自宅脇に「神楽堂」を建て、一般にも公開している。
神楽堂の中央に座ると、とぐろを巻いた全長17bほどの大蛇2体と目が合う。自作した10分の1サイズの神楽殿のミニチュアも置いてある。見慣れた面ばかりだが、四方から神楽面に見下ろされると、なぜか心が静まる。幼いころから神楽を見てきたからかもしれない。
私が神楽面を集め始めたのは、ちょうど大阪で万博が開かれていたころだ。といっても、万博で上演され、好評を博した派手な石見神楽に刺激を受けたわけではない。
大阪万博には、当時勤めていた会社から勤続15年のご褒美で行かせてもらった。ところが、土産を買いそびれてしまい、浜田に戻ってきてから、記念に地元の面作り師の手による般若の面を買った。それがきっかけで、神楽面を買うようになった。
本格的に集めるようになったのは、面作り師の先代岩本竹山(ちくざん)と知り合ってからだ。職人気質の彼とは、すぐに意気投合し、日曜日ごとに工房を訪ねるようになった。
面作り師と額を交換
彼の工房の片隅には、額に付けた贈答用の面が置かれていた。額はベニヤ板を切り抜いただけのものだ。それが建具師の私には気に入らなかった。桐の額を作ることを提案し、それと引きかえに、神楽面を作ってもらうことになった。額と面の交換は、85年ごろまで続いた。20から30枚の額と神楽面1点を交換してもらった。
行く手を清める天狗(てんぐ)や魔よけの般若、疫病退散の鍾馗、商売繁盛の狐。この四つの面は、新築や開店の祝いの品としてもよく注文が入るそうだ。だが、それ以外の面は神楽社中のメンバー以外、まず注文しない。それでも竹山は喜んで私の注文に応じてくれた。
彼が作る面には、独特の色気があった。同じ種類の面であっても微妙に顔の相が違っていて、一つとして同じものがなかった。竹山は88年に亡くなってしまったが、彼に作ってもらった面は私の宝物だ。コレクションも彼の作品が中心になっている。
神楽堂は間口2間、奥行き3間半と、神社にある神楽殿と全く同じ大きさだ。部屋の四隅には蛍光灯ではなく、裸電球をつるしている。風で電球が揺れるたび、神楽面の表情が変わるのを楽しみたいからだ。神社の神楽殿で演じられている時も神楽面は灯明が揺れるたび、異なる表情を見せる。それを自宅でも再現したかった。
神楽面を集めるうち、自然と石見神楽の歴史にも詳しくなった。江戸時代の石見神楽面は木彫りで、私の手元にも江戸末期や明治初期に作られたと思われる木彫りの神楽面が三つある。
しかし、石見地方は良質の和紙の産地であり、自然と和紙が材料として使われるようになった。実は木彫りの面よりも、和紙で作った面の方が丈夫で壊れにくい。幾重にも和紙を重ねて張って作っており、木のように割れることもない。その上、木彫りのものよりも軽いから、舞い手の負担も少ない。
ショ−化には苦言呈す
面が木彫りから軽量の和紙に変わったのは、神楽の担い手が神職から庶民に変わったこととも関係する。江戸時代、神楽は神職が舞うものだったが、明治初期に神職演舞禁止令が出されて、地元の人々が舞うようになったからだ。
この時、庶民神楽の普及に貢献した田中清見(すがみ)氏(1897年没)は、石見人気質を反映した八調子と呼ばれる急テンポの神楽舞を生み出した。ちなみに隣接する芸北地域(広島県北部)の神楽舞は昔ながらの六調子で、ゆったりとしている。
現在、浜田市内だけでも14の社中があり、大会やイベントも盛んだ。ただ、最近のショー化した石見神楽には苦言を呈したい。
春の祈願祭で五穀豊穣(ほうじょう)を祈り、秋の新嘗祭(にいなめさい)で収穫に感謝する際、神社に設けられた神楽殿で奉納するのが本当の石見神楽だ。ところが、ホールなどで上演される機会が増えたせいか、神楽を舞うことの原点を忘れている。例えば、舞っている最中に足の裏を見せるなんていうのはもってのほかだ。
社中に属している息子からも「おやじはうるさい」と煙たがられている。しかし、愛してやまない石見神楽の行く末を見守りたいと思っている。
(2002.3.12日本経済新聞掲載)