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ビジネス翻訳家
森 良示 |
California.USA在住。島根県益田市生まれ。(投稿) | |
| 私の育った村はかって「木部郷
(きべごう)」と呼ばれていた。それが「益田市木部町」へと昇格し、隣村だった「大浜」をひっくるめて「木部町」と総称されるようになったのは、昭和 40
年代だっただろうか?記憶は定かではないが、おそらく私の大学入学後の出来事だと思う。 日本海に面した木部郷やその周辺地域は、太古の昔から開けていたようである。私の育った東伝寺は曹洞宗の禅寺へ改宗する前までは、天台宗の密教時代が長かったと、今は亡き養父が生前よく私に語った。(因みに、亡父は曹洞宗東伝寺の第 23 代目の住職であった。) 本尊は木造の薬師如来で、両脇に日光・月光の両菩薩を従えているのは、石見地方では珍しいとのことだ。さらに驚くべきことは、この薬師如来像が聖徳太子作という話が寺に伝わっていることである。まさかそんなことがあるものか、とその寺伝を端から信じることはできなかったが、最近になり、そんなことも可能性が全くないとも言い切れないと思うようになった。昔から言い伝えは一見荒唐無稽であっても、一片の真実を含んでいるものであるという歴史学者の言葉が、そのように私に信じさせるきっかけとなったのである。 地方史家故矢富熊一郎氏の『鎌手村史』の中の記述を思い出した。同氏の研究調査結果によると、東伝寺の裏山である海印山の背後に大明神原 (だいみょうじんがはら) という水田地帯が広がっているが、奈良時代、この周辺に額田部ノ蘇提売 (ぬかたべのそでめ) と呼ばれる賢女の屋敷があったとのこと。蘇提売は石見地方の豪族の一門で、「神護景雲二年(768年)の昔に、石見の人で最初に日本の歴史にその名をとどめた人。彼女は多くの私財を投じて池溝をひらき、産業振興に力をつくしました。また、貧民孤児を救いました。」と同氏は述べている。この神護景雲二年は、朝廷から全国の孝子節婦が称揚された年であり、蘇提売は、石見の国司・紀ノ飯人の推挙により、18 名中の一人として表彰された。この出来事は大和朝廷の正史である『続日本紀』に記録されている。現代、目立った産業もなく過疎化が進む、この草深き石西の地において、このような高徳の女性が存在したということは大変な驚きであり、誇りである共に、心を温めてくれる話である。 では、奈良朝時代、木部郷に居住していた額田部族とは一体何者なのか?額田部ノ蘇提売が大和朝廷から孝子節婦として称揚され、表彰されたのが 768年のことであるから、東伝寺の木造薬師如来像を作ったとされる、聖徳太子 (574 〜 622) の没後、約一世紀が経過している。聖徳太子と言えば、日本史上初の女性天皇である推古天皇 (554 〜 628) の摂政として日本国の礎を築いた人であり、偶然の一致か、この女帝の本名は額田部皇女 (ぬかたべのひめみこ) である。「額田部」は元来、奈良の地の氏族の名前で、現在でも奈良県に地名としてその名を残している。おそらく、その支族が出雲・石見の地に移住したものと推測され、木部郷に居住していた額田部ノ蘇提売一族とも何らかの血縁関係があったのかもしれない。インターネットで検索して見つけた次の情報が、この推量の傍証となるかもしれない。 *************************************************************************** 考古のページ Q 額田部臣銘文入太刀がどうして重要なのか教えて下さい。 A この太刀から見つかった文字は 12 字。そのうち意味が分かるのは額田部臣の 4 文字だけである。しかしこれが重要なのだ。 一般に 6 世紀には日本では部民制と氏姓制という支配制度が存在してると考えられていた。この根拠は 8 世紀に作られた日本書記などの記載であった。しかし、この太刀は 6 世紀にこの支配制度が成立していた物的証拠になったのである。(玉を作り大王に納める人々を「玉作部」というように○○部とし天皇や中央の有力豪族のための食料、衣料、労働力などを奉仕させる義務を負わせる。これを部民制という。地方豪族は「臣」、「連」などの称号、すなわち「かばね」を与えられ、部民をまとめる中間管理職となった。これを氏姓制という。) *************************************************************************** 「額田部ノ蘇提売は、大和朝廷から孝子節婦として表彰された折に、その褒賞に聖徳太子御製の薬師如来木造を賜ったのではないか」という推論が頭の中をふと過ぎ去った。 額田部ノ蘇提売の住居址は、東伝寺の裏山「海印山」の東側に広がる、沖田川沿いの水田の小高い丘の麓にある。彼女の遺徳を称える明神祠や碑は、塩満へ抜ける道路沿いにひっそりと建っている。太古において、このように慈悲深き女性が木部地区に住んでいたとは...。誠に心洗われる事跡であり、感慨無量の感を禁じえない。 幼い頃よく養父母に連れられて、海印山の裏手の大明神原が一望の下に見渡せる野菜畑へ行ったことを覚えている。何か太古を思い起こすような、のびやかでけだるいような雰囲気をもった風景であった。雪に覆われ真っ白となった大明神原。柔らかな日差しの中で菜の花やれんげ草が咲き乱れる大明神原。川風に緑の稲穂がざわめく初夏の大明神原。はぜ杭に日干しにされた稲穂の束が黄金色に輝く、秋の大明神原。今は異国の空の下に身を晒す私にとって、忘れがたき故郷の心象風景である。(1999年4月13日、森 良示記) |
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