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島根県津和野町の地域活性化協議会から家人が招かれたのをきっかけに、連れ立って4日間の山陰の旅に出た。日ごろは縁の薄い地元の商店の経営者が結成した団体の催しに参加するよう声を掛けられたのには、もとより理由があった。
津和野から出た政治家に、高岡直吉(ただよし)という人がいた。家人の父方の祖父である。同じく津和野出身の森鴎外よりも2年早い万延元年に生まれ、明治8年に上京、更に北海道へ渡って札幌農学校に学んだ。官途に就いてからは、宮崎、島根、鹿児島の県知事を歴任、大正12年には初代の札幌市長に選ばれている。その弟の高岡熊雄は、兄の後を追って札幌農学校に入り、農政学者となって、のちには北大総長を務めた。共に明治日本にふさわしい立志伝中の人物と言っていいであろう。JR山口線の線路に平行して走る道のほとりに、高岡兄弟生誕の地の碑が建っている。
地域活性化協議会は、津和野駅から高岡兄弟生誕地を経て津和野大橋に至る全長約800Mの道路を、<高岡通り>と名付けて両側に40本の楓(かえで)を植え、兄弟の碑の周辺を小公園のようにしつらえて、新しい町並みを造る事業を、一年余りもかけて進めてきた。その完成を記念して行われる高岡兄弟顕彰祭に、家人は他の親族と一緒に招(よ)ばれたのであった。
前夜まで降り続いた雨が上がり、暖かな日差しに誘われて、兄弟の碑の傍に立つ桜の古本が、五分咲きの花を付けていた。
町興しとか、地域の活性化という言葉は、もう十年以上も前から頻繁に聞かれるようになったが、1億円ずつ全国の市町村にばらまいた例のふるさと創生資金のように、行政が音頭を取って立案し、金も出すのが普通だろら。しかし津和野の場合は違った。商店街の人たちが智慧を出し合って青写真を作り、自前の資金を用意した上で、行政に働きかけて計画の実現に漕ぎつけたという。
町の人たちには危機感があった。少しずつではあるが人口が減っているのである。旧藩時代の末期に3万あった人口が、今は6500しかない。「廃藩置県になって、県庁が隣国に置かれるようになったので、城下は俄に寂しくなつた」と鴎外の「ヰタ・セクスアリス」にあるが、寂しくなる傾向は今も続いているわけだろうか。
1980年代に″小京都ブーム”というものがあって、各地の小京都に観光客が詰めかけた。私は郷里が″みちのくの小京都”と称して有名になった秋田県の角館町だから、その実態を多少は知っている。ざわつく気配に眉をしかめる気難かし屋はいたものの、町は確実に豊かになった。”山陰の小京都”でも同じ現象が起ったのに違いない。でもブームは必ず去るものですね、と私を石見空港に出迎えてくれた全共闘世代の商店主が言った。だからブーム抜きでやって行けるように町の者が工夫しなくてはいけません、これまでにずいぶん試行錯誤をしたのですよ。その努力がやっと一つ実を結んだ事に昂揚したらしく熱の入る話に、私は快く聞き入った。
高岡兄弟の稗の前で行われた顕彰祭は、神事に始まり、<高岡通り>と誌(しる)した銘板の除幕があり、命名宣言があり、最後に家人が親族代表の挨拶をし、無事に終った。道沿いこ植えられた楓は、高さ5Mほどの若木である。年を経て枝が家の軒を覆う大木に育ったなら、紅葉の時期には町が燃え立つような壮観を呈するだろうが、たぶんその景色を見る事は叶うまい、と私は思った。
式典のあとの直会(なおらい)を済ませて、私たちは津和野城址へ向った。町の西方、海抜376Mの山の天辺に今は石垣のみを遺すこの城址へ、私はずっと以前に高橋義孝氏の「森鴎外」を読んだときから、いつかは行きたいと思っていた。晩秋の晴れた日に津和野を訪れた高橋氏は、明るく澄み切った風景のなかに「くろぐろと陰鬱に鎮まり返つた」石垣を眼にして、鴎外の怨念を感じる。氏によれば、宮内省陸軍の栄典を語気荒らかに拒絶し「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」と遺言して死んだ鴎外は、「人間らしく笑ひ泣き迷ひ悩むことのできなかつた恨み」を抱きつつ生涯を終えた人なのである。異論はいくらでも立てられようが、城址の印象から遺言の解釈を介して鴎外の人間に到る連想の飛躍が、私には面臼かった。鴎外について私自身ほぼ同じように感じていたせいもあったろう。
しかし、実際に登ってみた城址には、陰鬱な翳など微塵もなかった。石垣にも、周辺の緑の木々にも、うらうらとした午後の陽が沁み入り、たまに鴬が鳴くほかは物音もなく、そよとの風もなく、下の方から近づいて来る人の声が、耳許でささやくようにはっきりと聞えた。
坂崎出羽守が築いた出丸は、東に向って拓けて、眺望がいい。正面に青野山が望める。丸く優しげな頂上から伸びるなだらかな稜線が雲のない空を区切り、麓には草原が拡がる姿のいい山である。あの山の向うに未来がある、と信じて盆地の町を出て行った昔の青年の心事が察しられるような気がした。11歳で上京して以来、一度も津和野の土を踏まなかった鴎外と違って、高岡直吉は終生郷里との接触を絶やさなかった。
財政の窮屈な町のために、自らの土地を寄付して公共用に役立てた事もあったという。45年に及ぶ行政官生活で各地をめぐる間、郷里の風物を思い出す機会も多かっただろう。いま眼の前にある景色を、かつて故人も眺めたのだと思うと、私はいつもいささかの感傷を交えた格別の感情をそそられる。このときもそうであった。
私たちの旅の間、調子外れに暖かい日が重なった。津和野を去って2日後、山口市へ入った日には、桜がすでに満開であった。瑠璃光寺の五重塔は、修理のためシートで隠されて見えなかったが、裏山の緑のなかに点在する桜が、うかぶ雲のように花を咲かせ、参詣の人々は額に汗を滲ませて、眩しげに盛りの花を仰ぎ見ていた。
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