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書棚の一冊
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「芸に生き、愛に生き」 |
安 達 肇
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あれは、たぶん昭和33年のある春の日でした。私は苦闘の受験勉強の末、大学の入学試験に合格し、上京のため友人二人と発車間もない出雲号の三等車のボックスに座っていた。そのもう一つ空いた席に「よろしいですか」と一人の女性(その時はそう思った)が乗って来られた。スラックスにサンダル姿の大柄な上品な人だったが、白髪で、サンダルか らのぞく足の爪に銀色のマニュキアが塗られていた
。友人と顔を見合わせながらも神妙な表情を繕っていた。水の江瀧子のような明るく清潔な感じの人だったが、イガグリ頭の我々には強烈な印象だった。新劇俳優、曽我廼家桃蝶氏との初めての出会いであった。 それがご縁で、私が東京にいた8年の間に何回かお会いした。大学に8年いた訳ではなく、4年ほど会社勤めをした。私の帰省の都度、浜田の親戚への言伝てや土産の受け渡しだったりであったように思う。そういう郷里の人として、私はお会いした。 ある時は新宿のレストランでご馳走になり、歌舞伎町界隈を歩いたりした。女形と学生服に丸帽の大学生の二人づれだから道行く人が振り返った。私からすれば「品のいいおばさん」といった感じの人だったが、その人は「いつか、二人で歴史をつくりましょう、ほほ…」などと冗談を言った。私は半ば驚きながらも、どういう意味だろうと考えながら歩いていたことを憶えている。「カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは…」で知られた銀座の文明堂の社長がご贔屓筋で、いろいろお世話になっているなどとも話しておられた。 私が東横線の祐天寺に下宿していた頃、すぐ近くの下馬あたりにその人がいて、お邪魔したことがあった。そこは女優の京塚昌子のお宅で、彼女は留守だったが娘さんがカレーライスをご馳走してくれ、三人で食べたことも忘れられない思い出だ。 私が浜田へ帰り、結婚して家業に就いてからも、帰省の折には訪ねてこられたり、女手の筆に花をあしらった賀状を毎年いただいた。いつの頃か定かてないが、気がついた時には文通が途絶えていた。まさか亡くなったのではないかと思いながらも、そのまま今日に至ってしまった。 私の書棚に、かけがえのない一冊の本として、その人の自伝がある。それによると、その人の本名は中村憬(さとる)といい、書かれた内容から推定すると明治33年頃、今の浜田市高田町で生まれた。とすると、私の生まれ育った京町のすぐ裏であり、私の父より四つばかり先輩であり、私が初めて会った時は57才だったことになるが、今思い返してみても私には信じられない気持ちだった。しかし、それが38年前の事だから、もしその人がお元気なら95才になる。訃報を伝えず、いつまでも人の心にかかって生き続けるのも奥ゆかしいことかなと思いながら、ご親戚にたずねることもしていない。 その人は「先天的に女性を愛することができない」と書いている。軍人になることが男子の本懐とされていた時代に、子どもの頃から女形の役者になることが夢だったそうだから、生まれながら素質に恵まれていたのだろう。大正七年松井須磨子の「カチユーシャの歌」や「ゴンドラの歌」がはやった頃、新派の女形の桃木吉之助のもとに弟子入りし婦似男と名乗った。修業の甲斐あって徴兵検査のため浜田に帰省し駅に降り立った時は、黒山の人だかりだと書いてある。ラジオも無い時代にも風の便りに、この田舎まで役者としての名が届いていたようである。 やがて、彼は曽我廼家五郎の門下に入り、五郎劇の第一次黄金時代に新派女形として、晴れがましくも艶やかな活躍をした。そして、関東大震災の翌年から花柳章太郎一座に加わった。 私は、芝居とか歌舞伎とかは興味がなく又知識もなく、知己を得てから、その人が一時期大阪の千日劇場に出ておられたようだが、仕事も忙しく観劇に行こうとは思わなかった。しかし、いまかんがえるといささか残念に思う。彼は、引退を決意した昭和41年にこの自伝を著しており、私が知り合ってからそれまでの8年間は円熟した芸で観客を魅了していたに違いない。 (平成8年記) |
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