江川船頭、水色の伝承

印南敏秀(いんなみ・としひで、愛知大教授)


消えた川船の歴史・生活を語り部に聞く


 江川(江の川)は、かつて中国山地と日本海を結ぶ大動脈だった。川沿いの街や村と河口の島根県江津市を結ぶ江川船が現在のトラック輸送のように、この地方の物流を担っていた。
 江戸時代に隆盛をきわめた江川船は、昭和20年代まで物資の輸送に使われていた。民俗学を専門とする私は十数年前に、島根県桜江町で江川船の船頭を務めていた古老から話を聞く機会を得た。1903年(明治36年)生まれで、昨年、98歳で亡くなった平田和太郎さんだ。

炭・材木積んで4時間
 和太郎さんは、奥まった山あいの農村部、桜江町など中下流域から出る江川船の活躍と、船頭の暮らしや知恵を語ることのできる最後の語り部だった。五年間で17回に及ぶ聞き取り調査で、川とともに生きた人々の暮らしぶりの一端を知った。 江川船が鉄道に押され始めた1923年(大正12年)に船に乗り始めた。下りは江津まで4時間、上りは5、6時間かかる。全長15bほどある船に4d近くの荷が積める。上りの荷は雑貨や肥料などが中心だが、下り荷は季節によって異なる。炭、材木などは春先に集中した。冬場の生産物が春になってまとまって運び出されるからだ。年末には、米が船で地主や江津まで運ばれた。
 船頭の賃金は、作業員の3、4倍ほどで、よい稼ぎになった。「米俵2俵(約120kg)担がにゃあ、フナコ(船頭)として一人前でない」と言われるほど、きつい仕事だったからだ。身長153aと船頭としては一番小さかった和太郎さんも、100`ぐらいの荷は軽々と運んだ。
 船頭はよい現金収入があるだけに、遊びも豪快で、大酒飲み、大飯食いが多かった。江津の船着き場には、洒を飲ませる船頭宿が軒を連ね、渡し場にもたいていは洒を出す茶店があった。

 濁りを見て状況判断
 こうした川船も、昭和の初めから年々少なくなる。1930年(昭和5年)に、江津から中流域の川戸まで鉄道が通ると、下り荷の中心だった炭の輸送は大半が鉄道に変わってしまう。一方、鉄道工事用の石を船で運ぶ仕事が増えた。川の堤防の復旧工事などで石を運ぶ仕事は続き、和太郎さんも戦後は、石だけを運ぶようになり、1950年(昭和25年)ごろには船を下りる。
 「常に見とらにや、いざというとき、つまりませんからな(「対処できない」の意味)」というように、和太郎さんは、先々に備えて観察を怠らなかった。例えば、「川の水の色で、そのときどきの状況を判断した」。水が増水し始めると黒く濁り(クロニゴリ)、水が引き始めると、白い濁り水(シロニゴリ)に変わる。そして、もとの澄んだ水(スミズ)に戻る。こうした変化をいち早く知ることが船頭には要求された。
 和太郎さんの本業は、大半の船頭と同じように農業だった。農業だけでは暮らしが立たないので、船頭のほか、川漁や狩猟もした。アユやウナギ、サケをよくとり、ウナギ漁だけで一夏分の収入を得たこともあるという。
 「山も猟、川も漁」と太郎さんは言う。確かに、全国各地で聞き取り査をしていると、川漁好きな人は、狩猟も好なことが多い。山に入にせよ、川で漁をするせよ、深い自然認識が基盤となることに変わりない。

「ミズスジはずした」
 一度、和太郎さんと一緒に船外機付きの川船で江川を下ったことがある。印象的だったのは「三つミズスジを、はずしまたなあっ」という言葉だ。ミズスジ(水筋)というのは、船頭が長年の経験から選び出す船の通路だ。和太郎さんはこの日、船外機の力を使って近道したのが三回だと言い当てた。
 私は、この言葉が環境問題に直面する現代社会に対する警告に聞こえた。川が変化しても、水が流れる限りミズスジはあるが、現代では、効率を優先し、機械に頼って楽をする。地域の自然や生活の中で蓄積されてきた伝承文化をミズスジとするなら、現代社会はミズスジを外しているように思えてならない。 
 和太郎さんから伺った話は、一人の人間の生涯をたどるライフヒストリー(生活史)として今年、「水の生活誌」(八坂書房)という本にまとめた。和太郎さんの体験を語り継ぐことが、せめてもの恩返しだと思っている。                           (2002.5.6日本経済新聞・文化欄掲載)