| 地方の教育が最後にこの国を救う | 経済産業省大臣官房審議官 佐伯英隆 |
| 今月から3カ月間、短期研究のため、英国王立国際間題研究所に派遣され、山陰の冬以上に低く暗い空の広がるロンドンから書いています。英国での長期滞在は8年ぶりですが、前回に比べ好景気で、不動産価格も上昇し全体的に活気があって、日本の沈滞ムードとは好対照です。 初回以来、足かけ2年、今回が最終稿となりますが、一貫して「日本の活力の喪失」を主題に書いてきました。 最終回ということで若干、議論を呼びそうな主張も大目に見ていただけるとすれば、わが国をこんな「根性無し国家」にした最大の要因は、わが国産業の中で最も国際競争力の弱い二つの産業群―すなわち、マスコミと教育にあるというのが私の意見です。外部からの参入障壁に守られ、外との競争を意識することなく、護送船団的ぬるま湯に浸っている産業は衰退する、というのは経済の鉄則で、日本の金融、サービス業がその例に挙げられますが、私はむしろ、日本の教育とマスコミこそが、その典型例だと考えます。 マスコミについては、これまで拙稿で何度かそれへの批判を書いてきました。当然、反論もあろうことと存じますが、日本のマスメディアにもっと自分たちが実質的に国を動かす権力主体なのだという自覚と、世界のメディアに伍していける国際競争力を持ってもらいたいという思いからでした。このまま推移すれば、いつの日にか今の銀行や証券のように競争力のある外国の資本傘下に組み込まれてしまうのではないかと恐れます。 メディアを外国に渡すということは、国家の目と耳と口を渡すということです。どんなに反政府、反行政、反官僚的メディアであっても、外国資本に支配されたメディアよりは、はるかに良い、というのが官僚組織の一員たる私の率直な感じです。 しかし、最後に一点、メディアの方々にぜひご理解いただきたいことがあります。それは、その時々の多数世論というのが、長い目で見た時には常に正しいとは限らないという点です。歴史は繰り返し、それを証明しています。 当地英国では第二次大戦勃発前夜の世論の大多数は、チェンバレンの対ナチス融和策を支持し、チャーチルは戦争好きの頑迷な守旧派と見られていました。米国政府がロシアからアラスカを買収しようとした時、大阪市が御堂筋を建設しようとした時、世論とメディアはこぞって「巨大な冷蔵庫を買う無駄遣い」「街の真ん中に滑走路を造る無駄遣い」と反対しました。 ある時代に東京都政を担当した知事の「一人でも反対者がいれば橋も道路も造らない」という主張にマスコミと世論は圧倒的な支持を表明しその結果、この国の首都は、高度経済成長で日本にエネルギーがあふれていた時代に世界に伍する首都機能のインフラを整備できぬまま、今日そのツケを払わされています。 ある瞬間瞬間の世論は後から振り返ると正しいこともあり、間違っていることもある。それ故、4年なら4年という一定期間、自ら選出した議員なり知事なりに「任せて」、その期間を総合的に評定して再度、選び直すというのが代議制民主主義です。テレビの報道番組のように、個々の問題の賛否を一件ごとに世論調査して、その結果に従うのが民主主義だという「世論調査制民主主義」は、時として取り返しのつかない過ちを犯す可能性があります。 次に教育ですが、私は常々、究極の産業政策は教育であると思っています。正直でまじめかつ創意工夫とチャレンジ精神を保持する次の働く世代を育てることは、一国の産業にとって、金融財政政策や通商交渉より、はるかに重要なことなのです。日本の教育もかつては国際競争力がありました。アジアの優秀な頭脳を集め、有為な人材に育て上げ、それぞれの国に貢献してきました。 今やアジアの頭脳は日本を素通りし、日本人でも海外生活の経験者や海外に現せきを持つ人たちは、子どもが一定年齢に達すると「まともな教育を受けさせるため」海外の学校に送り出し始めています。アジアの隣人たちに比べ、知識水準も低く、まじめさにも欠け、スポーツでも韓国や中国にかなわないという青少年を毎年大量に送り出すシステムというのは、どんな立派な教育理念に基づいているのか知りませんが、何かが根本的に間違っているのではないでしょうか。 とりわけ大都市およびその周辺の公の初等中等教育は、極端な結果平等主義と知識の軽視で、ほとんど崩壊に瀕(ひん)しています。教育と成功の機会は万人に平等に与えられるべきです。しかし、その機会をどう生かすか個人で差が出るのは自然なことで、その結果生じる格差まで否定してしまっては社会の進歩は止まります。落ちこぽれをなくそうという考え方はそれなりに意義のあることですが、結果平等主義を強調すればするほど、努力して上昇しようという意欲は失われます。 個人の才覚や努力が収入や地位の差に表れることを否定した社会主義経済システムが、70年間の壮大な実験の末、失政した教訓から何かを学ぶべきではないでしょうか。同時に教育というのは、その人が社会生活を営むため必要な規律を教えるという側面もあります。そのためには規則を犯したものに何らかのペナルティーを科すことが必須です。 英国のパブリックスクールは原則全寮制で、上級生が下級生を厳しく生活指導しています。映画のハリーポツターの世界です。日本の学校では規則を破った者がいても、その者の責任を追及するのではなく「これは皆の問題だからクラス全体で考えよう」などと、責任の所在を曖昧にしてしまいます。生徒をしかってはイケナイ、というマニュアルでもあるのでしょうか。こんな奇妙な教育をしているのは日本だけです。 ただ救いは、地方の公的教育が大都市やその周辺の教育と比べて、まだ正常な姿を維持しているという点です。地方が大都市圏に比べて現在本当に競争力があるのは「しっかりとしたまともな教育」―この一点に尽きると思います。地方に在勤した者の中には地方で子弟が受けた「まともな教育」に魅せられて、子どもを(場合によっては妻も)地方に残し、逆単身赴任するケースも増えています。 地方にとっても人口―とりわけ若者がそれだけ増加し、外部との人の絆(きずな)も太くなり、経済効果も伴うという、一石二鳥の妙手です。「わが県で、子どもにまともな教育を受けさせてみませんか」というのを地域振興の柱かキャッチフレーズにしてはいかがでしょうか。ちょうど、日本の歴史上、機能しなくなった中央のシステムに代替えするのは常に地方から出た有為の人材群であったように、私は衰退する日本を救う残された手段は地方の教育だと信じています。 まだまだ書きたいことは尽きませんが、ひとまずこれで筆を置きます。拙稿へのご批判、ご意見、ご提案などメール(saeki−hidetaka@meti.go.jp)をいただければ幸せに存じます。山陰ファンの一人として、読者の皆様のご多幸をお祈りいたします。長い間ありがとうございました。 [ 2002.12.22 山陰中央新報 「羅針盤」より転載] |
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