(1)石見国府はどこにあったか?
従来、石見国府の所在地については仁万説、都農郷(江津市神主)説、伊甘郷(浜田市国府町伊甘)説など諸説がある。
大化の改新以後、朝廷は中央集権国家を造る為に全国に国司、群司 をおく詔を発したが、それが朝廷勢力拡大の最先端である遠国・石見へ及んで来るのは700年頃以降と考えられている。当時出雲国の版図に組み込まれていた石見においては、行政、文化のトレンドは東から西へと流れてきており、開拓による勢力の拡大とともに仁万→都農→伊甘へと短期間に西進したものと考えられる。また移転につれて施設も充実し、最終の地・伊甘には石見国庁、国分寺、国分尼寺など国府としての体制が出来上がったり、以後約450年間続いた。
柿本人麿は705年(慶雲2)に初代の石見国守として着任し、709年頃までの4年間、那賀郡都農郷神主に在任したといわれている。
■推理1
702(大宝ニ)年、当時の朝廷(藤原京)は大宝令を施行し、地方の国造などを招集して統一的政治体制を改めることを下令した。それにより出雲国は郡制に切り替えられたため「出雲郡」となり、出雲国造は「出雲臣」として単なる意宇郡司に格下げされた。それとともに出雲国司として中央貴族・正五位下忌部宿禰子首(いんべのすくねおびと)が着任し、出雲国庁の建設も進められた。(門脇禎二著・出雲の古代史)
このような当時の政治の一連の流れに則って、柿本朝臣人麿の国司への任命も行われたものであり、一概に流罪といった悲劇的な処遇とみる従来の諸説には疑問を持たざるを得ない。
■推理2
聖武天皇の御世の天平13年頃、全国の国府に国分寺を建立するよう御布令が発せられた。その頃の石見国府があった都農郷神主は、地元が「神都」の故を以って反対し、遅々として進まなかった。ようやく天平19年(747)、那賀郡司・大領久米臣村部が郡司の職を世襲にするという条件で引き受けて、748年
伊甘郷に建立した。それに伴い国府も伊甘郷に移された。従って、人麿が出仕した当時の国府は都農郷(江津市神主)と推理される。(梨田精−元浜田市長−著「柿本人麿終焉の地と幻の石見国庁跡」より)
(2) 依羅娘子(よさみのおとめ、通称・恵良姫)の生誕地
歌聖・柿本人麿の妻といわれ、自らも万葉歌人だった依羅娘子(恵良姫)
の生誕地は江津市二宮町とされ、二宮交流館入り口に顕彰碑がある。
依羅娘子は今から約1300年前、角の里(二宮町を中心とした一帯)恵良の豪商・井上家の娘として出生。石見の国の初代国守として赴任した柿本人麿の妻になったと伝えられる。才色兼備の女性で歌をよく詠み、万葉集に三首が載っている。 井上家は、その後裔で近年まで町会議員を務めた井上治三郎氏に至るまで、姓・屋号ともに連綿と受け継がれて現在に至っている。(矢富熊一郎氏)
「石見八重葎」によると、依羅娘子は角野本郷にある西岸寺の前の井上道益という医者の娘である。人麿の三人目の後妻であったが、後に本妻となって都へ上り、依羅連の養女となり義父の名を名乗った。
右写真の「 人麿の松 」 は、江津市都野津町にあり、人麿別邸の跡とも、依羅娘子の墓の跡ともいわれている。