人麻呂の謎を訪ねて

柿本人麻呂の足跡

鴨島説と益田

鴨山説と浜田

江津と人麻呂

湯抱説と邑智

万葉歌人の選んだ
石見37名所


人麿は
いつ頃、何処で生れたのか?

諸 説
支持する論者
場 所
生年
大和説 斉藤茂吉、岡田正美、栗崎瑞雄、土淵正一郎 大和国添上郡柿本(栗崎瑞雄) 660(斎明6)年(栗崎瑞雄)
658年(土淵正一郎
石見説 下河辺長流、僧契沖、荷田信名、荷田春満、樋口 功、矢富熊一郎、岡 熊臣 石見国美濃郡小野郷戸田(岡 熊臣)
百済説 朴炳植 百済滅亡(663)後に半島を脱出、益田市戸田に漂着
近江説 賀茂真淵、関谷真可禰 近江大津

大和説
 柿本家は、大和朝廷の中でも武勇で名をはせ、4〜5世紀にわたって皇室と深い姻戚関係あった和邇氏、春日氏の流れをくむ名家であった。敏達天皇の治世(572-585)の頃、邸の庭にあった柿の木にちなんで「柿本臣」を名乗って春日氏から分家したと考えられている。人麻呂が生まれたのはそれから2、3代後であり、それまで大和から他に移った形跡はないので人麿の出生地は大和国添上郡柿本と考えられる。(栗崎瑞雄・柿本人麿の謎)

石見説
 応神天皇の頃、春日族、小野族、櫛代族などが石見国の那賀、美濃地方に移住・開拓して定着したと言われている。美濃郡小野郷戸田に定着した綾部氏も、大和において仕えていた柿本氏に従って石見に下り、代々語家(かたらや)として仕えた。その綾部氏家系によると、柿本氏の何某が語家の女に産ませた男子が即ち柿本人麿である。その父は早死し語家で養育したという。その地には現在、戸田柿本神社がある。(矢富熊一郎柿本人麻呂と鴨山

■推理1
 「日本書紀」にみられる「猿」とか「佐留」 という者は人麿と同一人物である(栗崎瑞雄・梅原猛)といわれる。仕官して朝臣を賜る名家の秀才がこのような書かれ方をするのは腑に落ちない点がある(咎めを受けた後なら止むを得ないが・・・・・)。しかし、石見という鄙(田舎)から取り立てられた人物なら、このような侮蔑的な呼び方をされることも忍ばざるをえないと考えられる。

■推理2
 「語家」は上代に存在した「語部」の一種とされ、小野、和邇族から「猿女(さるめ)を祖とする語部」を出していたという伝説がある(矢富熊一郎)。このことから考えると、「猿」とか「佐留」という名は「石見の語部の出自」を暗示しているのではということも考えられる。

■推理3
 大和朝廷が、本格的に出雲の征圧に乗り出したのは6世紀後半からである。しかし、列島全域の統一を目指す大和の勢力は、列島各地の開拓と探索をもくろんで大和の諸族を各地に移住させたと考えられている。出雲国の版図に属していた石見を目指して、小野族、柿本族などが、海路から長門国を磯伝いに東上、石見国に新天地を定め、小野郷の基礎が築かれたと考えられている。
  大和の勢力が出雲に侵入した際、四人の語部を指定し要所に配置したとされている(延喜式)。語部は、平常は土着の民衆とともに生活しているが、地域の伝承や神話などを収集し、朝廷に報告する義務を負っているとされる(「出雲の古代史」・門脇禎二)。地域によりいかなる言語が使われているか分からない古代では、言語に精通した部族が重宝されたことも考えられる。それは当時の中国や朝鮮半島の豊富な言語知識を蓄えていたものと推測できるであろう。そう考えるならば、人麿が生育する過程で置かれた環境は申し分のないものであったと思われる。

百済説
 
百済が新羅によって滅ぼされた(663)後に、百済の遺民を優遇してくれる日本へ家族と共に半島を脱出したが運悪く海難に遭遇し、ただ一人益田市戸田に漂着した。その時の彼の年齢は25歳前後であった。百済の貴族出身であった彼は、百済の地で漢字文化になじみ、高度な漢文素養を身につけていた。
 それは矢富熊一郎がその著書の中に、「人丸秘密抄」からの引用として掲載している「天武天皇御時三年八月三日に、石見国戸田郡山里という所に、語の家命とう民の家の、柿の本に出現する人あり。其歳二十余家命尋問に答云、我は家なし、来る所もなし。父母もなし。知所もなし。只和歌の道のみ知れりと云う。時に家命の主、丹後国司泰冬道に申す。冬道御原天皇に奏す。帝よろこび思召して、歌道の御侍読たり。・・・・・・」とは符合する。またそれは、人麿の歌の「表記論的研究」あるいは「言語学的研究」からも説明できる・・・としている。
 また、同じく父母不詳、生没年不明といわれている山上億良も百済人であり、4歳のときに日本に渡来してきたといわれ、当時における日本と半島との政治的状況からすれば十分考えられることである。

石見での人麿の足跡

暦 年 年齢 項 目 説 明
702(大宝2)年?
42歳
流罪?により石見に下向 大和→難波津→明石→讃岐(狭岑島に逗留)太宰府→長門(向津浦に逗留)→石見・浜田港(松原湾)
704(慶雲元)年 44歳  
705(慶雲2)年 45歳 都農郷(那賀郡神主)・石見国庁に到着 山陰最西端の国府で未だ守・介は存在せず、そ
れ以下の位に左遷されたと思われる
708(和銅元)年 48歳 特赦により都へ向かう 国司の任期は通常4年であり、707年文武天皇
の崩御による特赦による
途中、不比等側に捕らえられ再び西へ向い病死? 刑死? 古代、流人の最後は秘密のうちに処刑された

讃岐の狭岑島
 狭岑島は坂出市の東北約100mの沖合いにあった沙弥島(さみじま)であるといわれ、現在では埋め立てられて陸続きになっている。梅原猛は、この島は「流人の島」であったと書いているが、波穏やかな瀬戸内のチョッと泳げば渡れるような島に流罪人を流すであろうか?
 むしろ重要な問題は、万葉集巻二の人麿の死の歌の前にある、人麿が狭岑島で詠った長歌一首と反歌二首である。つまり、「讃岐の狭岑島に、石の中の死(みまか)れる人を視て、柿本人麻呂の作る歌」という詞書がある歌である。これは人麿が今の丸亀市の中津付近から船出してくると、時つ風(時を定めて吹く風)による風波の恐ろしさに狭岑島の磯辺に非難したところ、そこの石の中に死人のあったのを見て慟哭敬弔をささげた歌である。
「(前略)狭岑の島の 荒磯面に いおりて見れば 浪の音の 繁き浜辺を 敷たえの 枕になして 荒床に 自伏す君が 家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを  玉ほこの道だにしらず おほほしく 待ちか恋ふらむ 愛しきつまらは」と歌っている。
梅原猛は、またこの歌を「流罪の歌」といっているが、それよりも人麿が後に自らの死に際に歌ったとされる歌との関連こそ重要である。

人麿は何故大宰府に行ったのか?
 万葉時代の大宰府とは、「遠の朝廷(とうのみかど)」として筑紫(九州)全体を総監し、 また国防、外交、貿易の拠点として第二の都にふさわしい文化の活力源でもあった。いわば大陸及び半島との人や文化の交流の中継地であり、都に劣らず歌も盛んに詠まれていた。
 
天智2年に白村江の戦いで大敗して大宰府が内陸の現在地に移されてからは、土着民、防人、僧侶、中央派遣の官人、海外派遣の使人らがきそって歌を詠んでいる。「天ざかる鄙」の地で異郷の自然風土が望郷・旅愁を呼び起こし、旅装を解いたひとときにも創作意欲を掻き立てられたのであろう。 殊に天平から神亀にかけては、太宰帥(そち)・大伴旅人、筑前国守・山上憶良等を中心に「筑紫歌壇」とも称すべき文雅の交わりができており、いわば万葉の最盛期であった。ことに山上憶良は壮年時には人麿とも交友があったようである。
  そうした筑紫の歌人たちが、その道の頂点にある人麿にあこがれ、指導を仰ぐために筑紫への来迎を願うこともまた当然のことであろう。(広沢虔一郎著「大伴家持」、犬養孝著「万葉の旅」より)

■推理4
 持統天皇退位、律令国家の成立、奈良遷都などの政治的激動や、国家建設のための人材不足による地方官僚への転用により石見へ下向することになった状況の中で、人麿が「歌の世界」からの引退を決意したのではないか。この際、以前から招請を受けていた「筑紫歌壇」の仲間たちに会って自分の気持ちを伝えたい、と考えたとしてもおかしくないのではないか。

石見和紙の祖神・柿本人麿
 寛政10(1798)年に著された、浜田藩美濃郡遠田村の国東治兵衛作の製紙法解説文献に「紙漉重宝紀」なるものがある。それによると、慶運・和銅年間(704-715)のこととして、石見国守護・柿本人麿が民に紙漉き法を伝授したことが伝説として残っていることが記されている。現在も三隅町、津和野町で漉かれている石州和紙は、石見の特産品としてその名をとどめている。

参考文献
  • 柿本人麿 終焉の地と幻の石見国庁跡 (梨田 精著)
  • 柿本人麿の謎(栗崎瑞雄・現代日本社)
  • 柿本人麻呂と鴨山(矢富熊一郎・限定復刻版)
  • 帋灯・柿本人麻呂(柿花 仄・東京経済)
  • 人麿の謎を解く (土淵正一郎著・新人物往来社)
  • 水底の歌 柿本人麿論 上・下 (梅原 猛・新潮文庫)
  • 石見国名所和歌集成 (石見地方未刊資料研究会 )
  • 万葉の旅 上・中・下(犬養孝著・社旗思想社)
  • スサノオの来た道(朴炳植著・毎日新聞社)