謎に包まれた柿本人麿の生涯
「万葉集」の代表的な歌人として優れた歌を残し、また宮廷歌人として天武・持統の両帝に仕えた歌聖・柿本人麿は、古代の石見国と不思議な因縁で結ばれ、その生涯は多くの謎に包まれている。 殊にその「生と死」をめぐる謎には諸説あり、今もって古代史ファンのロマンをかきたてている。 いにしえの昔から島根県西部の石見地方には、人麿がこの地で生まれ、上京して宮廷に仕えた後、石見国府の役人として故郷に帰り、この地で妻をめとり、この地で世を去ったという伝承が残り、随所で人麿ゆかりの史跡をみることができる。そして、郷土の人の心には今でも人麻呂伝承が根強く息づいている。
その謎の焦点は何処にあるのか、その謎の正体は現在何処まで解明されているのか?・・・・・を探りながら推理してみよう。
「万葉集」の世界(小学館「日本歴史館」より)
舒明朝(在位629-641)から壬申の乱(672)にかけての時期は「初期万葉時代」といわれ、歌の世界はいわば文字以前の「声の文化」であった。渡来人の漢文がみられたのは5−6世紀であるが、それから約200年を経た天武朝(672-686)になりやまと歌の漢字による文字表現が始まったといわれている。その後持統朝(687-697)になり、人麿を中心として付属語も文字化するなど新しい表記法が工夫された。
柿本人麿が活躍したのは、 「万葉集」の第二期(壬申の乱から平城京遷都710まで)である。675年に礼節と歌などにより社会秩序を保ち、人心を平らかにするために「礼学が」が取り入れられることになり、諸国の歌人が招集された。
平城京遷都(710)から733年までは 「万葉集」
第三期とされ、 第四期はそれから759年までをいう。平城京時代の歌人の中では、人麿の宮廷讃歌の伝統を継承したのは、とりわけ独自の自然美を表現した山部赤人であったといわれる。
「万葉集」はいつ頃撰集されたか?(梅原猛「水底の歌」より)
延喜五年(905)に紀貫之によって著された、 「万葉集」の撰集に関する最古の記録である「古今和歌集仮名序」によれば、 「万葉集」は「ならのみかど」のときに柿本人麿、山部赤人(生没不詳)なる同時代人によって、それ以前の歌を集めて撰集されたと言う。「ならのみかど」とは聖武帝(724-749)であり人麿はその時まで長生きした・・・・・と近世の国学者・藤原清輔(1104-1177)は考証している。
人麻呂流罪の謎
(1)政治抗争説(栗崎瑞雄氏)
持統天皇退位(文武元年、697年) の後、持統が推す軽皇子(文武天皇)が即位するに当って4年ばかり空白期間があり、この間に皇位継承にまつわる重大な歴史的な事件があったことが考えられる。 その際、軽皇子の即位についての反対派(天武派)に属していた人麿は、権謀術数を駆使する持統派の総帥である藤原不比等によって排除され断罪されたと考えられている。
■推理1(反論 )
三十六歌仙の一人に数えられ、「万葉集」の代表的な歌人である柿本人麿は、 歌聖と称えられる万世一代の天才芸術家である。特に「歌」は、当時の宮廷、知識人を中心とした支配層から農民など下層の民まで、古代の日本社会を風靡する一大芸術であった。
政治と芸術は、本来「相容れないもの」であり、本質的に異質なものである。どちらにも首を突っ込む中途半端な人間ならともかく、歌道という一つの芸術に打ち込んでこれを極めた人麿に、「政治」という陰湿な坩堝に入り込むような邪心があっただろうか? ちょっとそれは考えにくいことではないだろうか?
古代の大和朝廷内部における抗争はすさまじい情況を呈しており、敗北した一族郎党は死を以って粛清されている。それを考えると人麿の場合は格段に軽減されており、政治抗争説ではその真実味が疑われる。
むしろ、人麿は一世を風靡する大スターであり、持統をはじめとする高貴な人々からももてはやされ、嫉妬を招くような存在であったかもしれない。そのことが遂に人麿に災いを招いたということは十分考えられるであろう。
権力者・秀吉との確執の末、「死を賜った千利休」に相似するようにも思えるのだが、いかがなものだろうか。
(2)密通説(柿花 仄氏)
「大日本歌道極秘傳書」(享保元年、1716年)及び「古今和歌集仮名序」には、持統天皇と人麿との密通を暗示する文章があり、人麿はそれによって断罪されたと考えられる。
その際の人麿の刑罰は、死罪ではなく、稚児のように額に二つの朱のほくろの刺青を刺された上での追放の刑(流されたのは上総国)であると書かれている。 持統の寵愛を受けた宮廷歌人は死一等を減じられたが、人麿にとっては死を賜るよりも屈辱的だったかもしれない。かくして、二人の禁じられた恋は人の知るところとなり終焉した。
■推理2
持統とはどんな女帝だったのだろうか?―
686年(朱鳥元年)9月に天武が亡くなってから、皇后であった持統は服喪(もがり)を経て690年に持統天皇となった。天武がその基礎を作った「律令国家体制」を、持統は中年の執念とも言える情熱を持ってさらに推進した。この頃の持統は、非常に気が強くて、才気走っていて、魅力的な女性だった。また同時に聡明で、政治的な力量もそなえていた。
しかし、
夫の天武が生きている間、持統には怨念と欲求不満の情念があったと思われる。 壬申の乱に勝って専制王者となった天武は、後宮に次々と数え切れないほどの若い皇女を入れて子を産ませる。・・・・・そうすると、持統としては嫉妬の情が起こる。これは当然のことだと思う。(黒岩重吾・古代史への旅より)
(3)人麿・山辺赤人同一人物説(柿花 仄他)
また、聖武天皇(在位724-749)の御代に万葉集の撰が行われることとなり、選者は橘 諸兄、大伴家持(718?-785)に決ったが、その判者がいないので人麿を呼び戻すことになった。
しかし、前科者では如何ともしがたいということで、「山辺赤人」と名を変えさせて召しかかえたとされている。
■推理3
前記のように、人麿が660年生まれで、708年受刑したと仮定すれば、呼び戻されたのが724年としても人麿はすでに64歳となっている。その間に16年というブランクがある。708年の「人麿の死」がなかったことになる、第二の人生である「赤人」は天平8年(736年、推定)に没しているので、76歳まで生きたことになる。
また、 山辺赤人も三十六歌仙の一人であるが、出生なども含めて一切不詳なのもこの説の傍証となっている。
■推理4
この説が真実とするならば、人麿の死に臨んで歌われたとされる、いらゆる「鴨山五首」は何だったのか?うがって考えるなら、「赤人」として再生するための妻(依羅娘子)と親友(丹比真人)を巻き込んでの「死の演出」
だったのかもしれない。
人麿終焉の地はどこか?
■終焉の地・鴨山 での辞世の歌
柿本朝臣人麿 「石見国に在りて臨死(みまか)らむとする時 自ら傷みて作る歌」
(万葉集223)
鴨山の岩根し枕けるわれをかも知らにと妹が待ちつつあらむ
[ かもやまの、いわねしまける、われをかも、しらにといもが、まちつつあらん ]
人麿の終焉の地については一部に異論もあるが、
大方は次表のように石見国のどこかの鴨山に間違いないと考えられているようだ。
鴨山についての諸説
| 鴨山についての諸説 |
筆 者 |
発表時期 |
書名(論文) |
発 行 |
| 益田・鴨島説 |
正 徹 |
文安 5年 |
正徹物語 |
- |
| 岡 熊 臣 |
文政11年 |
柿本人麻呂事蹟考弁 |
- |
| 矢富熊一郎 |
昭和39年 |
柿本人麻呂と鴨山 |
益田郷土史矢富会 |
| 梅原 猛 |
昭和48年 |
水底の歌 |
大仏次郎賞受賞・新潮社 |
| 浜田・鴨山説 |
藤井 宗雄 |
明治39年 |
浜田鑑(石見国名跡考) |
- |
| 武田 裕吉 |
昭和14年 |
万葉集新講 |
山海堂 |
| 佐々木信綱 |
昭和16年 |
万葉集事典 |
中央公論社 |
| 栗崎瑞雄 |
昭和55年 |
柿本人麿の謎 |
現代日本社 |
| 古田武彦 |
平成6年 |
人麿の運命 |
原書房 |
| 江津・神山説 |
吉田東伍 |
明治33年 |
大日本地名辞書 |
冨山房 |
| 邑智・湯抱説 |
斎藤茂吉 |
昭和 9年 |
柿本人麿 (鴨山考) |
帝国学士院賞・岩波書店 |
| 沢潟久孝 |
昭和32年 |
万葉集注釈1 |
中央公論社 |
| 犬養 孝 |
昭和39年 |
万葉の旅 |
社会思想社 |

|