石見の囲碁

 


石見から二人の本因坊と二人の因碩

 日本一の"宝"をもつ町〈仁摩町〉

棋聖本因坊道策

 石見三聖(歌聖人麻呂・ 画聖雪舟 ・棋聖道策)の1人と言われる棋士(1649年〜1702年)邇摩郡馬路村(現仁摩町)の山崎家に生れる。
山崎家は毛利の臣下・松浦但馬守から出たといわれ、後に禄を離れ大田の山崎に住んだので、その地名を姓とした。道策は幼くして俊才で7、8歳で碁を学び、13歳(1662年)のとき江戸に出て一見してその奇才を見抜いた本因坊3世道悦の門人となる。1678年に20代(29歳)の若さで本因坊4世を継ぎ名人碁所に推挙された。1682年琉球名人浜比賀と国の名誉をかけて対局したが浜比賀は道策の神技に敬服して師事し、道策の名声は益々高まった。また囲碁界においても定石を定め、段位制を敷くなど大きな功績を残した。山崎家は今も続き遺品も残されている。

道策の客観的評価

 16世紀後半に日蓮宗の僧日海(後の本因坊算砂)が現れてから日本の囲碁は大いに進歩し競技方法の革命的変革などもあって、中国・韓国などに決定的な差をつけた。秀吉の時代に本因坊家が覇権を確立したが、家康によって本因坊・井上・安井・林の四家を家元とする家元制度が確立された。それからの100年間に日本の囲碁は驚くべき進歩を遂げ、17世紀後半の元禄時代になって囲碁史上、古今を通じての大名人と言われる本因坊道策の出現をみるに至った。江戸時代300年の囲碁史は1時代に1人しか許されない名人(=囲碁界を取り仕切る名人碁所という絶対的権威)を賭けての四家元による血みどろの闘争の歴史でもあった。歴代本因坊の中でも第四世本因坊道策は後世から「実力13段」と言われた怪物であり人物も立派で人望もあった。

現代のプロ棋士による明治以前の歴史上の名手たちのランキング
                     (岩波新書「囲碁の世界」中山典之著より)

第1位 本因坊道策
第2位 本因坊秀策
第3位 本因坊丈和
第4位 本因坊秀栄
第5位 本因坊秀甫

第3世井上因碩
  生年不詳〜1697(元禄10)年 道策の実弟で道砂休山とも号した実兄の師である本因坊3世道悦に学び2世因碩の没後の1673(延宝元年)年に3世因碩となる。

第10世井上因碩
 山崎家からは第10世因碩もでている。 本名 山崎因砂。 天明4年(1784)石見国邇摩郡馬路村の本因坊道策の実家に生まれる。 文化7年(1810)、26才の時、9世井上因碩春策の急死により、 井上因碩の2女の婿となり井上家を相続した。当時五段。 文政7年(1824)11世井上因碩幻庵に家督を譲り隠居。 文政12年(1829)没。  

その他の石見のプロ棋士

石見が生んだ幕末の名棋士・岸本左一郎

 岸本左一郎は文政五(1822)年に大森(大田市)で生まれた。13歳で囲碁を知り、翌年からは父の勧めに従い出雲国の儒学者山本閑休のもとで学んだ。そうした中、閑休は左一郎の囲碁に対する非凡な才能を見いだした。 左一郎は、天保8年に父とともに江戸へ赴き、本因坊丈和のもとに入門する。石州の生んだ棋聖道策への想いが本因坊家を選ばせたのだろうか。そしてそれが同年の暮れに本因坊家に入門してきた7歳年下の桑原虎次郎(後の本因坊秀策)との出会いを生むのである。 学問の師閑休の予言通り修業の場を得た左一郎は翌天保9年には18歳で四段に進んだが(当時の初段が現在のアマ6段程度)、そこで彼の人生に岐路が訪れた。父と師閑休が亡くなり、故郷には年老いた母が残されていた。江戸で修業を続け、囲碁の師丈和の期待に応えるか、帰郷し母に孝養を尽くすかを選ばなければならなかった。 また、秀策が備後国因島の出身であることもあり、彼が里帰りした際には尾道や石見圏内で対局している。嘉永元(1848)年、左一郎は『活碁新評』を出版した。帰郷した翌年には初心者向けに解説した『常用妙手』を発行し、次いで『定石精評』を著した。左一郎は嘉永五(1852)年の冬に修業のため再び上京した。31歳であった。母が死没したことにより彼は囲碁に専念することが可能となったのである。同6年に五段、同7年には6段に昇段した。左一郎は本因坊家の塾頭を務めたとされるが、この時期のことであろう。嘉永5−7年には、毎年一局ずつ秀策と対局している。黒番ながら、御城碁無敗の秀策相手に2連勝(8目勝、9目勝)し、3局目は最後まで2目リードしながら、三日三晩の徹夜対局の疲れから逆転された(現在のコミ碁でも二勝一敗)。約2年の修業後、左一郎は安政元年9月には江戸を立ち帰郷した。 安政5年7月、左一郎は病気により37歳の生涯を終え、その直後に本因坊家から使者が派遣され、彼に七段位が贈られた。左一郎は囲碁の修業の妨げになることをおそれ、終生独身であった。現在、その碑は島根県仁摩町天河内の満行寺前の旧山陰道沿いの丘の上にある。 (島根県松江教育センター主事 原 慶三 /98.6.25山陰中央新報掲載記事より抜粋) 
   

岩本薫第34・35期本因坊 99.11.30、97歳で死去されました。ご冥福をお祈りします。
 1902(明治35)年〜1999(平成11年) 益田市高津出身 /元日本棋院理事長。韓国釜山の町道場で囲碁を覚え、ひと月に一目づつ強くなり当地の邦字新聞にも書かれた。大正2年12歳のとき上京して方円社の広瀬平治郎六段に内弟子として入門。大正6年16歳で入段大正15年六段に昇段。48年八段、67年九段に昇進。83年に81歳で引退した。七段当時の46年、第三期本因坊戦で橋本昭宇本因坊を破り「本因坊薫和」を名乗った。翌年、木谷実八段を下して防衛。中盤に強く、「豆まき碁」の碁風で一時代を画した。岩本九段は海外での囲碁指導に熱心で、ほぼ全世界を巡回指導して歩いた。また囲碁研究に来日する外国人の面倒もよくみられ、その中からプロ棋士も誕生している。48年には日本棋院理事長も務めた。紫綬褒車、勲三等瑞宝章を受章、東京都名誉市民。門下に曲励起九段、福井正明八段らがいる。

原爆下の本因坊戦

 昭和20年7月本因坊橋本宇太郎への挑戦手合が行われた。24日から3日間、広島の日本棋院支部長宅で第1局が打たれたが(白番岩本勝)、当局から市内は危険という勧告を受け第2局は10k郊外の五日市で打たれた。8月5日から3日間打たれたこの第2局は「原爆の碁」として後世に語り伝えられている(岩本負)。二日目(6日)の対局直後に原爆投下が行われピカッという光線と大音響がし、爆風で障子襖が倒れ、碁石が飛び窓ガラスは粉々になったと言われる。観戦の支部役員も全員死亡という地獄絵を見る惨状に人生観も変わり一度死んだつもりで余生を囲碁発展に尽くす決心をしたという。結局本因坊戦は岩本氏が勝利し第34期本因坊に就任薫和と名乗った(二期連続)。

神田 英九段 (益田市出身の日本棋院棋士)
 小学生でアマ6段となり「天才少年」とうたわれ、益田中学卒業して上京、安藤武夫6段門下に入る。昭和52年プロ入りし、今年の大手合の結果九段に昇段した。石見出身棋士として岩本薫九段以来の快挙で、リーグ戦入りが楽しみ。。益田市中吉田町出身。東京都町田市在住。20歳で結婚した夫人と子供3人の5人家族。愛犬との散歩と酒が趣味。