■石見神楽の歴史
石見を代表する郷土民俗芸能として日本全国に、また近年は海外でも舞われるようになった石見神楽はどういう素性のものなのか、その歴史をひもといてみましょう。
● 元来神楽は神の御心を和ませるため、春秋の祭りに五穀豊穣を祈り神に感謝する意をこめて、氏神様に奉納されてきたものです。その神を勧請するために、神職が面をかぶらずに舞っていた舞が儀式舞であり、神と深い結びつきを持つ宗教的な祭祀(神楽系・儀式舞)として分類されます。その代表的なものが邑智郡に伝えられている有名な「大元神楽」です。それはいわば現代の石見神楽の原型といわれ、そのリズムは六調子といわれる古風でゆったりしたものでした。
● 勧請された神の前で神を敬いその威徳を示すために、主として面をかぶって舞われるのが能舞です。神に扮した人間が神となって演じる舞ともいえます。面をかぶり採物(とりもの)をもって舞う、劇的な構成をもつ石見神楽の主たる演目はこの範疇に属するものといえます。出雲神楽も同類のもので石見神楽の原型と思われがちですが、近年の研究では出雲起源説には根拠がなく、むしろいにしえから現代まで古い形を守ってきた大元神楽の流れを基に、数百年の歴史の間に出雲神楽や九州の岩戸神楽を始めとしたさまざまな地方の流れと融合しながら伝えられたものと考えられます。
● 明治3、4年に神祇院から「神職演舞禁止令」、「神懸り禁止令」が出されてからは、神楽は氏子が舞うものとなり大衆芸能化の一歩を踏み出すことになった。それをうけて明治17年に藤井宗雄(浜田市出身の国学者・神職)や田中清見、牛尾弘篤らによる石見神楽の改革が行われた。これらの主として台詞の面での改作や演目の取捨選択とあわせて、浜田市を中心にリズムも従来の六調子から現代のリズム感にマッチした八調子に変わり、全国の神楽ファンに受け入れられるものとなった。また同時に重い木製の面から軽い和紙の面へ、大蛇の提灯胴の発明、花火・硝煙の使用、きらびやかな刺繍の衣装などと積極的な改革がどんどんなされていった。 これはいわば石見人の先進的で開放的かつ庶民的な気質によってもたらされたものであろう。
●石見神楽の演目は30余りにのぼり、殆どその内容は「古事記」、「日本書紀」を原典として脚色されたものであり、古代の世界を彷彿とさせるものです。 石見神楽は石見一円はゆうに及ばず、安芸・長門の一部でも行われており、石見国内に約100団体、総数では200団体に及んでいます。
■藤井宗雄 (1823―1906)
国学者・神職。那賀郡鍋石村(現浜田市鍋石)の庄屋の三男に生まれ、父・兄の後を襲って家(庄屋)を継いだが、幼時から学を好み、土地の素封家江尾家の援助を受けて国学を修め、本居宣長・平田篤胤に傾倒し、大国隆正の教えも受けた。1870年(明治3)浜田県出仕を命じられ、県内神社の取調べを担当し、「管内神社明細帳」など5部48冊の報告書を作成したが、これを契機として以後深く神社界に関与することとなり、1874年(明治7)には岩上社と三宮との祠官、1876年(明治9)島根県に合併後石見国神道事務分局長に任じられた。著書は多く約80部200巻といわれている。
■田中清見(たなかすがみ、文化11年―明治30年)
浜田市に生まれる。浜田市下山稲荷社神職。明治の初めの「神職演舞禁止令」に伴い神楽が神職から民間に委譲されるとき、新しい八調子の神楽を考案して、民間社中の草分けである浜田・細谷社中に対して、主として実技面の指導を行い今日の石見神楽の基礎作りに貢献した。
(写真:田中清見顕彰碑 浜田市大辻町 大元神社境内 )
■牛尾弘篤(1826―1901)
浜田市内村の代々神官の家系に生まれ、石見神楽改革運動に加わった。 |